2020年版ものづくり白書が5月29日に公開された。ものづくり白書は、ものづくり基盤技術振興基本法(平成11年法律第2号)第8条にもとづく、政府がものづくり基盤技術の振興に関して講じた施策に関する報告書だ。経済産業省、厚生労働省、文部科学省の3省が共同で作成を行っている。
2020年版ものづくり白書では、「我が国製造業が、この不確実性の時代において取るべき戦略」(総論)がメインテーマとなっている。具体的には、それは「ダイナミック・ケイパビリティ(企業変革力)」の強化であり、その有効な手段としての「デジタルトランスフォーメーション(DX)」の具体策が書かれている。このほど、同書の作成をとりまとめた経済産業省 製造産業局ものづくり政策審議室長の中野剛志氏に、2020年版ものづくり白書第1章の概要について解説していただいた。本稿(前編)ではその内容を紹介する。また、続く後編では、白書のこまかいポイントや日本の製造業の未来についてインタビューした(聞き手:IoTNEWS代表 小泉耕二)。
不確実性の時代に露呈した、サプライチェーンの脆弱性
IoTNEWS 小泉耕二(以下、小泉): 2020年版ものづくり白書について、いくつかポイントを教えていただけますか。
経済産業省 中野剛志氏(以下、中野): 一つは、1章の初めに書かれている、新型コロナウイルス感染症(以下、COVID-19と表記する)が製造業のサプライチェーンに与えた影響についてです(本文p.5)。2020 年1月に中国湖北省武漢で発生したCOVID-19は、まず中国国内で拡大しました。これにより、中国にある工場や企業とのサプライチェーンが寸断され、各国の製造業が大きな影響を受けました。
この対応策としては、国内回帰が一つの方法です。しかし、話はそう簡単ではありません。たとえば、日本には地震のリスクもあります。完全に安全な場所というのは、どこにもないのです。重要なことは、効率性だけではなく、柔軟性のあるサプライチェーンに再編するという、発想の転換です。グローバル化によってサプライチェーンの効率性を重視してきた結果が、今回の寸断を生んだ大きな要因となっているからです(後述)。
中野: 経済産業省では、COVID-19の発生以前から、既にサプライチェーンの再編について議論を進めていました(参考記事はこちら)。なぜなら、世界はその前から非常に不確実性の高い(何が起こるかわからない、先読みができない)状況にあったからです。それは、イギリスのEU脱退(Brexit)や米中貿易摩擦として現われています。しかし、それらの現象はあくまで不確実性の「結果」であり、2008年のリーマンショック以降10年間、世界の不確実性はずっと高まり続けていたのです(上の図)。
つまり、その不確実性の流れの中に、新たにCOVID-19が加わったということです。IMF専務理事のクリスタリナ・ゲオルギエバ氏は、「不確実性は新しい常態(ニュー・ノーマル)となりつつある」と言っています。私たちは、未来を予測し、ビジョンをかかげてそこにむかって進むという従来の戦略そのものを、見直さなければならないときに来ていると言えるのです。
中野: サプライチェーンの寸断についてもう少し詳しく説明します。1980年代前半までは、製造業の各工程(上の図の1~3)は国内で完結しているのが普通でした。その後、1980年代後半頃から、デジタル技術などを使って各工程を複数の国(上の図のA、B、C)に分散する方向に進みました。最も効率性が高くなるように、工程を配置するという方法です。これが、いわゆるグローバル・サプライチェーンです。しかし、これは各国のサプライチェーンが寸断されると、機能しません。今回は図中の国Bが中国にあたり、寸断の理由がパンデミックでした。また、日本では自動車部品の輸入額が中国に集中している状況にありました(上の図の右側)。効率性を重視してサプライチェーンを構築してきた結果です。
効率性から柔軟性への転換とダイナミック・ケイパビリティの強化
中野: では、サプライチェーンを今後どのように再編すべきか。これは難しい問題です。国内回帰をしても、地震などの別の不確実性リスクも考えられるからです。そこで、私たちが注目したのが、「ダイナミック・ケイパビリティ」という経営戦略論です。
ダイナミック・ケイパビリティとは、「環境や状況が激しく変化する中で、企業が、その変化に対応して自己を変革する能力のこと」(白書本文)である。カリフォルニア大学バークレー校ハース・ビジネススクール教授のデイヴィッド・J・ティース氏によって提唱され、近年、注目を浴びている戦略経営論だ。白書では訳語として、「企業変革力」とされている。
中野: 簡単にいえば、どのような不測の事態が起きても柔軟に対応できる「反射神経」を鍛えるという考え方です。私はこのことを説明するのに、「野球」の例え話をよくします。バッターの立場で考えてみれば、不確実性が高い状況とは、「ピッチャーの球筋が読めない」状況です。こうした状況では、予測が外れれば、バッターは打てません。しかし、卓越したバッターであるイチローは、そもそも球筋を読みません。その代わりに、彼は飛んできたボールを胸元まで引きつけ、球筋を見極めてから打つのです。そうすれば、ストレートが来ようと、フォークが来ようと、関係ありません。これは、卓越した反射神経があるからできる芸当です。
中野: つまり、予測するのではなく、反射神経を鍛えるのです。これが、ダイナミック・ケイパビリティの基本的な考え方です。また、その手段としてデジタル技術が有効であるということが、今回の白書の重要なメッセージです。経済産業省では、5年ほど前からIoTやAIなどのデジタル技術を活用することの重要性について発信してきました。しかし、その主な目的は、あくまで生産性の向上や安定稼働、品質改善などに限定されていました。こうした目的でのデジタル活用はもちろん必要です。しかし、ティース教授の議論にもとづくならば、それらは世の中の変化が小さいときに企業が備えるべき能力(オーディナリー・ケイパビリティ)にすぎないのです。
ティース氏によると、企業のケイパビリティは、「オーディナリー・ケイパビリティ(通常能力)」と「ダイナミック・ケイパビリティ(企業変革力)」の二つに分けることができる。この二つは企業活動の両輪だ。オーディナリー・ケイパビリティとは、「与えられた経営資源をより効率的に利用して、利益を最大化しようとする能力」(本文)のことだ。たとえば、業務効率化、コスト削減、安定稼働、品質管理などはこの能力にあたる。
中野: つまり、デジタル技術はオーディナリー・ケイパビリティの強化にも活用できますが、それだけではもったいないわけです。いまこそ、ダイナミック・ケイパビリティの強化にデジタル技術を使うべきだ、そう考え、今回の白書を構成しました。経営戦略にくわしい先生方にお話を伺うと、ダイナミック・ケイパビリティの議論は従来からありましたが、その手段としてデジタル技術が有効であるという議論はそれほどなかったようです。ダイナミック・ケイパビリティを高めるために「デジタルトランスフォーメーション(DX)」に取り組みましょうというメッセージを公に発信したのは、もしかすると今回のものづくり白書が最初かもしれません。もっとも、デジタルの分野に詳しい方であれば、すぐに連想できる話ではないかと思いますが。
小泉: ダイナミック・ケイパビリティの高い企業には、どのような例がありますか。
中野: 富士フイルムがとてもいい例です(概要p.9、本文p.45、p.54)。富士フイルムでは、2000年代まで写真用フイルムが主力ビジネスでした。しかし、デジタルカメラの普及に伴い、写真用フイルムの市場は急激に衰退しました。このとき、競合企業であったコダックは倒産しました。コダックは選択と集中で効率性を重視してきたこともあり、主力のフイルム事業からすぐに脱却できなかったのです。しかし、富士フイルムは生き残りました。既存の事業に固執せず、早い段階から化粧品や医薬品、再生医療などの分野に参入していたからです。今、COVID-19の抗ウイルス薬としても注目されている抗インフルエンザウイルス薬「アビガン」を開発したのは、富士フイルム傘下の企業です。効率性だけでなく、柔軟性を持って多角的に事業を進めていた富士フイルムは、ダイナミック・ケイパビリティが高い企業の代表例だといえます。
不確実性の高い時代には、こうしたマインドや組織の「やわらかさ」が重要です。そのための有効な手段として、デジタルを使ってほしい。日本企業はこれまで石油危機、円高不況、バブル崩壊、リーマンショック、東日本大震災などの不確実性に幾度もさらされてきましたが、それでも乗り越えてきました。このことは、日本にはダイナミック・ケイパビリティの高い企業が数多くあるということを意味していると思います。しかし、デジタル活用における柔軟性ということに関していうと、少し厳しい現状にあることが今回の調査の結果見えてきました。データの収集や利活用が停滞しているのです。
中野: 設備投資が停滞していることや、いま一つデータ活用の有効性が見えないということもあると思います。しかし、ここで今一度発想の転換をしてほしいと思います。COVID-19により、世の中ではテレワークが注目されています。しかし、そこでなされている議論はあまり本質的ではない。なぜなら、それはあくまで「効率性」の話が中心だからです。そうではなく、ダイナミック・ケイパビリティを強化するためにこそ、今一度データの収集やデジタル技術の活用に取り組むというマインドを持ってほしいのです。
先ほど申し上げたように、不確実性に対処するには、リアルタイムに環境の変化を読み、自らを変化させる必要があります。しかし、そのとき、「自分が何者か」を知らなければ、変化することはできません。つまり、それは自分たちの企業のデータを集めることです。事実、サプライチェーンの寸断で大きな影響を受けた企業の中には、サプライチェーンの中の企業の「顔」が見えない、つまりどこから調達しているかわからないという企業もが少なくなかったようです。これでは、不確実性に対処できません。したがって、データを集める意味はあるのです。そのことが、COVID-19を契機に、あらためてわかったわけです。
今回、各企業のIT投資の目的をアンケート調査しました。すると、オーディナリー・ケイパビリティ重視の企業のIT投資は旧来型システムの更新や維持(オーディナリー・ケイパビリティ)を重視し、ビジネス変革やデジタル人材の育成に消極的であるのに対し、ダイナミック・ケイパビリティ重視の企業はビジネス変革やデジタル人材の育成を重視する傾向にあることがわかりました(下の図)。
中野: ティース教授は、ダイナミック・ケイパビリティの強化には「企業家的な能力」が必要であるが、その「能力」は外から持ってくるのではなく、企業内部で構築しなければならないといっています(本文p.43)。これは、「デジタル人材」においても、そのままあてはまります。私たちの(白書とは別の)統計データからは、日本のIT人材の割合はITベンダーが約7割、ユーザー企業が約3割であるということがわかっています。しかしこの割合は、アメリカではまったく逆です。アメリカでは多くのデジタル人材が、ユーザー企業内で育成されているのです。ダイナミック・ケイパビリティの強化のためには、日本もこの割合を上げていく必要があるでしょう(※)。
ダイナミック・ケイパビリティ強化のカギは、「設計力」にある
小泉: 後半の設計力強化戦略(本文p.73~)は、今回の白書の見どころの一つだと感じました。これは、製造業のデジタル活用の文脈において、あまり議論されてこなかったことですよね。
中野: まさに、今回の白書の重要なテーマです。ものづくり白書では、これまでは製造現場におけるIoTの活用などを重視していました。日本の製造業の競争力の強みは「現場力」、「匠の技」にあります。労働人口が減少に向かう中、その部分をデジタル化によって維持、強化していこうということを、経済産業省ではここ5年ほどうったえてきました。もちろん、製造現場が大事であることはいうまでもありません。しかし、今回ヒアリングを行った結果、この数年で日本の製造業の「設計力」が弱っているという声を多く聞きました。事実、近年、設計力が上がっていないという傾向が各種アンケート調査からも見られたのです(本文p.74~)。
中野: 製造業では、製品の品質とコストの8割は、設計段階で決まると言われます。開発が進むにしたがって、仕様変更の自由度が低下していくからです。そのため、できるだけ開発の初期段階であるエンジニアリングチェーンに資源を集中的に投入する「フロントローディング」が有効です(上の図)。しかし、そのためには設計力が強くなければなりません。
具体的にいえば、設計段階でデジタル・ツールなどを使ってシミュレーションができれば、試作を行う必要がなくなります。すると、設計の作業負荷が下がり、しかもリードタイムを短縮できるようになります。これまで数か月かけて作っていたものが数週間、数日でつくれるということは、先ほどのダイナミック・ケイパビリティの議論に戻れば、「変化に素早く対応できる」(反射神経が高い)ということになります。製造現場の力が重要であることはわかっています。しかし、これまではその部分ばかりを重視してきたために、設計力が弱っている、設計のデジタル化が遅れている、という現状を看過してしまっていたという反省があります。
しかし、よく考えてみれば、製造現場のデータをIoTで収集できれば、その知見を設計にフィードバックできます。したがって、製造現場のデジタル化というのも、結局のところ設計力に効いてくるということになります。言い換えれば、設計力を強化して、フロントローディングを進めるためには、データの活用や設計のデジタル化(3Dデータでの設計)によって、設計―製造―サービスといったプロセス全体の連携を進めていくことが重要になるのです。
ところが、現状はなかなか厳しいです。アンケート調査を行ったところ、設計プロセスを3Dデータのみで行っている企業はわずか17%しかいないことが判明したのです(上の図・左)。また、自動車業界では、3DCADの普及率は低迷し、むしろ2Dへの回帰が進んでいることもわかりました(上の図・右)。企業にヒアリングしてみると、3Dで設計したデータをわざわざ2Dデータ・図面に変換して渡し、受け取った方がまたその2Dデータ・図面を再び3Dデータに変換するといったこみいった現状があることもわかってきました。実際にアンケート調査からは、そうした傾向が出ています(本文p.92)。欧米のデータはないので比較はできませんが、日本で欧米と取引している企業では3Dデータで設計データのやりとりをすることは当たり前ということですから、日本は相当遅れているのだろうと推測しています。
(後編へ続く)

