日本の材料メーカーは世界で見ても大きなシェアや強さを持っている。
新材料の研究は基本的に、当たりを付けた上で総当り方法で実験を繰り返すという方法を行っているという。しかしこの方法では、新材料を開発するために膨大な時間と労力がかかってしまう。
そこで、マテリアルズ・インフォマティクス(以下、MI)という、デジタルの力を使って新しい素材を効率よく見つけようという動きがグローバルでも盛んになってきている。
長瀬産業株式会社はケミカルや食品素材を中心に取り扱う専門商社である。しかし、新たにビッグデータを活用し価値を生み出そうとしている。
長瀬産業は、化学、バイオ素材メーカー向け新材料探索プラットフォームをIBMと共同で開発し、2020年11月から「TABRASA(タブラサ)」としてサービス提供を開始した。
長瀬産業の執行役員であり、同プラットフォームを統括する折井靖光氏にお話を伺った。
長瀬産業の新たな取り組み
IoTNEWS 小泉耕二(以下、小泉): 現在の長瀬産業の取り組みに関して教えて下さい。
長瀬産業 折井靖光氏(以下、折井): 長瀬産業では、「化学、バイオ素材メーカー向け新材料探索プラットフォームをIBMと共同開発」という内容を2019年にプレスリリースしました。その時点では、2020年にサービス提供を目指すとしていましたが、そのサービス提供のタイミングが来ました。
シンギュラリティを唱えているレイ・カーツワイル氏は、収穫加速の法則を提唱しています。これは、テクノロジーは指数関数的に発展するという法則です。
1秒あたりのコンピューターの計算能力は、パンチカード、リレー、真空管と技術の進歩があり、指数関数的に向上しています。現在はICがムーアの法則によって進歩してきましたが、ICの進歩は止まろうとしています。
次のパラダイムシフトを起こすかどうかは、新材料の開発にかかっていると考えています。
そこで利用されるのが、MIです。MIとは、AIやデジタルの力を活用し、材料科学と過去のデータを組み合わせて、新しい材料を発見するというものです。
今日現在、既に発見されている材料の数は10億(10の9乗)個と言われていますが、権威ある科学雑誌「ネイチャー」に掲載されている論文によると、まだ見つかっていない材料は、10の62乗個もあると言われています。
こんなにも新材料があると言われている中で、なぜ見つけられないかと言うと、研究者が今あるものを少しずつ改良していくという方法を取っているからだと考えています。
この方法では、大きく異なった材料に到達する可能性は少ないです。MIを活用すれば、こうした問題を解決できるのではないかと考えました。
プラットフォームを構築する2つのエンジン

小泉: サービス提供が開始された化学、バイオ素材メーカー向け新材料探索プラットフォーム「TABRASA」とはどういうものですか。
折井: 新材料を探索するためのプラットフォームです。海外でも、日本の材料メーカーに対抗するために、MIを導入していて開発期間を短縮しようとしている企業が増えてきています。
このプラットフォームを使用することで、こうした海外企業に対抗し、日本の材料メーカーとしての強みを更に強くしたいという思いがあります。
このプラットフォームは2つのエンジンから出来ています。コグニティブアプローチとアナリティクスアプローチです。
ナレッジグラフを作成するコグニティブアプローチ

小泉: コグニティブアプローチとは、どういうものでしょうか。
折井: コグニティブアプローチとは、PDFファイルの論文や技術資料、特許などの様々な多数のドキュメントを読み込ませることで、知識を作成するものです。IBMのAIがベースになっていて、自然言語処理とナレッジグラフ作成を行うことで、AIの中に新しい知識を作ります。日本語と英語の書類に対応しています。
ナレッジグラフとは、人間の頭の中の知識のつながりのようなものをAIの中でも作るということです。カテゴリを作成し、様々なデータを有機的につなげることで、AIの中にその知識に関する専門家を作成します。
今までは、研究者が自分で実験を行ったり、関係のある分野の論文を読み込んだりすることで自分の知識を深めていましたが、コグニティブアプローチでは、別の分野の論文や資料も読み込ませることで、より幅広い大量の知識をわかりやすくまとめることが可能になります。
https://www.youtube.com/watch?v=i_jlfMO_ipw
長瀬産業のグループ企業である株式会社林原は「TABRASA」を導入した
実際に、グループ企業の株式会社林原が酵素に関するナレッジグラフを作成しましたが、約1000ページの百科事典のデータやよく使用する公共データ、技術論文のデータなど、約1000万件のデータを読み込ませ、有機的に繋げました。これにより、研究員による知識の差や固定概念が少なくなったという意見が出ています。
約1000万件のデータを常に頭の中に入れて研究している人はいないため、誰よりも酵素に詳しい専門家がAIの中にいるようなことになります。
このコグニティブアプローチに使用されているAIは、汎用的なAIではないので、専門領域の知識を立ち上げていく必要があります。専門的な技術的用語を登録したり、ナレッジグラフのカテゴリを作成しカテゴリ同士の関係性を登録したりする必要がありますが、一度登録ができれば、論文を読み込ませると自動で知識同士を繋げることができるようになります。
こうした知識の立ち上げは、その知識に関する専門家が行う必要がありますが、システムのUIがしっかりしているため、データサイエンティストがいなくても、質問に答えるような形でシステムを使用することが出来ます。
小泉: 自然言語処理において、多言語に対応することは難しいと感じています。実際に対応するにあたっての苦労はありましたか。
折井: 基本的には、英語の文章を処理しています。日本語の論文は英語に翻訳した上で、処理を行います。IBMのフロントエンジンとして翻訳機能がついているため、大きな苦労はありませんでした。
小泉: 論文は様々な場所で査読や発表がされていますが、論文の信憑性に関してはどのように評価しているのでしょうか。
折井: 材料の領域では、物性値をどういった装置で評価したかということが非常に重要です。評価装置は日々改良されていて、最新の装置と30年前の装置では、評価結果である物性値が異なることがあります。
コグニティブアプローチでは、論文の発表年代で区切ってナレッジグラフを作成することが出来ます。評価装置のトレンドを押さえて、人がフィルターをかけることで同じ評価結果を使用したナレッジグラフを作成するということでデータの信憑性を担保します。
見たことのない化学構造式を提案するアナリティクスアプローチ

小泉: アナリティクスアプローチとは、どういうものでしょうか。
折井: アナリティクスアプローチは、化学構造式と対応する物性値を読み込ませ、関係性を機械学習で学習させることで、物性値を入力すると自動的に予め学習させたデータには含まれていない化学構造式を数理科学的に作成できるシステムです。
このシステムから出力すると、見たことのない化学構造式が出てきます。この化学構造式は、これまでの研究方法では気付くことが出来なかったようなものも含まれている可能性があり、そこから研究者がヒントを得て研究を進めることができるのではないかと考えています。
林原では、糖の化学構造式と融点の組み合わせのデータをAIに学習させました。学習したモデルに対し、融点を設定し、例えば100℃、150℃、200℃と入力すると、その融点になる糖の化学構造式が出力されます。
これまで、林原の研究員が新たな化学構造式を考え出そうとした場合、1つの構造式に3日掛けていましたが、アナリティクスアプローチを使用することで、1日に10個の化学構造式を出力することが出来ました。
小泉: このアナリティクスアプローチを行うためには、コグニティブアプローチも行う必要がありますか。
折井: アナリティクスアプローチは化学構造式と物性値が対になっているものがあれば使用できますが、そのデータをどこから参照するかという話になります。
自分たちが実験している領域は自分たちのデータを参照すれば良いですが、他の領域のデータを参照しようと思うと、技術論文や百科事典などから参照するしか方法はありません。そうしたデータを連携させるためにはコグニティブアプローチも必要になってくると考えています。
新材料探索プラットフォームの先に広がる可能性

小泉: 同プラットフォームを使用することで、企業の中での研究にも新たな可能性が生まれるだろうし、他国や他の研究機関の研究データを加えることで更に大きく状況が変わるだろうと感じました。
折井: その通りです。研究者は自分たちの研究エリアしか見ていないことがあります。それは、同じ分野の研究でもそうですが、異なる分野では更に交わらないです。例えば、近年の電子工学は、生物からインスパイアされたものを使用しようという動きがありますが、生物の研究者と電子工学の研究者は、お互いの学会に参加することも少なく、使う言葉も違います。
AIであれば、そのようなことは関係なく、共通の単語が繋がりナレッジグラフを作成する事ができます。そこから新たな知識が生まれてくるでしょう。
小泉: はじめは基礎研究をしている研究者のためのシステムかもしれませんが、産業と繋がっていくことで本当に適切な材料が何かを見つけられるようなシステムにもなりそうですね。
折井: アイディアさえあればものづくりができるようになると思います。これまでは、ものづくりをするときに、守るべき設計ルールが中心にありましたが、たくさんの新材料が見つかることで、これまでの設計ルールにとらわれる必要がなくなります。アイディアを実現するために必要な素材を選ぶことで、これまでの設計では実現できなかった物が作れるようになると思います。
小泉: このシステムを使用することで、今までは作業をすれば良いと思っていた人も、イマジネーションを持って研究や開発を行う必要があり、俯瞰したデータの見方ができる必要がありそうです。研究者が更に一段上の思考や作業を行うようになると感じます。
折井: その手助けができるのではないかと思っています。
小泉: 本日は貴重なお話をありがとうございました。
【関連リンク】
・化学バイオ素材メーカー向け新材料探索プラットフォーム「TABRASA」(製品ページ)
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大学卒業後、メーカーに勤務。生産技術職として新規ラインの立ち上げや、工場内のカイゼン業務に携わる。2019年7月に入社し、製造業を中心としたIoTの可能性について探求中。